ファンタジー・国内

いしいしんじ

最近注目の作家さんですが、ハードカバーでしか出ていなかったため、遠くから見守ってました(笑)。やっと文庫化が始まったので、ぼちぼちいきたいと思います。

「ぶらんこ乗り」
新潮文庫 2004

較べることもできない天才を弟に持つって、どういう気持ちがするものなのだろう?
私だったら、憎んでしまうかもしれない。ひがんでしまうかもしれない。
でも、こんな子が弟だったら?

ぶらんこが誰よりも上手で、ぶらんこの上に住んでいて、お話がうまい。そして、自分と世界をつなぐために、姉である私を頼りにしてくれている弟。
そんな子が、弟だったら?

答えは出ない。私の弟はどちらかというと姉や私の後ろにいることが多かったし、私はもともと、人の心がわからない子どもだったから。

と、こんな風な文章を書いてしまうくらい、影響力の強い本でした。うーん、でも、私にはちょっときつい、かな。
惹かれるけれど、また文庫が出たら読んでしまうけれど、影響も受けると思うけれど、心のどこかに違和感がある、そんな気がします。うまく説明は出来ないけれど、何かが、「違うよ」と言う、そんな感じ。そこがいいのかも、とも思いますけれどね。


「麦ふみクーツェ」
新潮文庫 2005 (単行本は理論社 2002)

石畳の敷かれた港町で育った「ぼく」は、いつだってクラスの誰よりも背の高い、明らかに浮き上がった子どもだった。祖父は厳しい音楽家、父は研究にとりつかれた数学者。母親のいない3人だけの家族。人の話を聞いているのかいないのかわからないような父は、オムレツを作るのがとても上手だった。
ある晩、1人で眠れない夜を過ごしていたぼくは、不思議な音を聞く。それは、港町にはないはずの広い広い黄色の畑で麦を踏む、麦ふみクーツェの足音だった……。

主人公「ぼく」の子どもっぽい一人称で語られる、不思議と悲劇がいっぱいの物語。けれども、悲劇の向こうには未来もあるし、心温まる出来事も起こる。人生、悪いことばかりでも、いいことばかりでもないんだ、と、改めて思わされる作品でした。

圧倒的なのは、やっぱり、音楽です。
そしてねずみ(笑)。
主人公の耳にずっと聞こえている、クーツェの麦ふみの音。祖父のティンパニ。学校の用務員さんの鳴らした、会心の鐘の音。楽団の皆の心がひとつになった時に生まれる、奇跡のような音楽。
私は音楽を奏でることは出来ないけれど、読んでいると、遠い何かの音に耳を澄ませてみたくなります。流れ星の音、とか。

前作ではずーっとどこか心の中がざりざりしていたのですが、今回は後半は大丈夫(笑)でした。でもやっぱり、ちょっと痛いところは痛いかな。

「ひとりで生きてくためにさ、へんてこは、それぞれじぶんのわざをみがかなきゃなんない」

言葉は違うけれど、立場も周囲も違うけれど、私もずっとそう思ってきました。
人は同じじゃない。同じではあり得ない。でも、飛び抜けて変わっていたら、やっぱり生きていくのは大変ですよね。
2005.08.07


「トリツカレ男」
新潮文庫 2006(単行本はビリケン出版 2001)

オペラに三段跳び、サングラス集め、語学、etc.
ある日突然何かにはまり、それに夢中になって寝ても覚めてもそればかりを追いかけてしまう癖のあるジュゼッペは、町のみんなから「トリツカレ男」と呼ばれている。オペラにはまっている間は何もかもを歌にして歌って歩き、勤め先のレストランからは休暇を言い渡されたし、三段跳びにはまったときには世界記録を軽く塗り替えた。語学にはまったときには15ヶ国をマスターしたし、探偵ごっこにはまったときには幾つもの難事件を解決したらしい。天真爛漫で無邪気な、はまっている間だけの天才。けれど、その秋の日、サンドイッチを作るのにはまっていたジュゼッペができあがったサンドイッチを持って訪れた公園で出会い、一目ではまってしまったのは、悲しい瞳をした1人の少女だった……。

文庫になるととりあえず読んでいるいしいしんじ。今回のこの作品はラブストーリーです。色んな意味での愛の物語でもありますねー。3冊目にしてやっと、私の心をざりざりさせない本でした(笑)。どこかで読んだような、懐かしい雰囲気のお話。これはやはり、癒し系?

寓話というか、ほら話というか。
全編を通して、「こんなことあるわけないよー」という夢物語です。でも、ちょっと信じてみたくなる。願ってみたくなる。それがこの作者の持っている力なのでしょう。言霊の力が感じられる文章だなと思います。あまりにも、自然に始まって自然に終わるのに逆にひっかかってしまうのが、ちょっと自分で悲しいですねー。でも、ロープウェイのくだりでは、電車の中で涙ぐみそうになりました。言葉の力、夢見る力、そしてそれらの与えてくれる何かを実感させてくれます。

ヒロインは、ちょっとどうなのかなあ?(笑)、ですが、ジュゼッペの相棒であるハツカネズミはとっても素敵。ああいう相棒がいたら、楽しいだろうなって思います。
2006.05.10

「いしいしんじのごはん日記」
新潮文庫 2006

この本を読むと、ものすごくお魚が食べたくなります。
和食系お魚料理満載
絶対に食べたくなります。
ご注意下さい。

と、これくらい書いておけばOK?(笑)。
この本は、物語ではなくて、食べ物中心の日記です。インターネット上で連載されていたものを文庫化したもの。ネットで最近のをちょっとだけ読んだことがあったのですが、これは最初の1年半ほど。「麦ふみクーツェ」から「プラネタリウムのふたご」までを書いていた頃のお話みたい。著者は、途中の割と早い時点で、浅草から三崎に移り住み、そこでお魚三昧の日々を送りはじめます。

そうですね、試しに2002年の今日は……、あ、ダメだ、具合が悪くていまいちだったみたい(苦)。じゃあ、明日のメニューを。

晩ごはんは、しまあじの刺身。かます塩レモン、かます塩焼き。かわはぎ煮付け。貝わりの塩焼き、ゴーヤのきんぴら。おぼろとうふ。だだ茶豆。

そんなわけで、めちゃくちゃお魚が美味しそうです。
思わず、自分も引っ越してみたくなります。
いえ、引っ越せませんが(笑)。

この人の小説を読んでいるとき、私はなんとなく、あの文章は小説用に作られた文章なのだろうと思っていました。あの思考形態も、言葉の選び方も。でも、この日記を読んでいると、もしかするとこの人のそれはナチュラルだったの? という気持ちに……。もちろん、文体自体は、その人が作り上げるものなのですし、小説にしても日記にしても、文章化した時点で、その文体になってしまうものなのかもしれません。でも、言葉の感じとか、物事のとらえ方とかはやっぱり、ある程度まではその人自身が現れるもの。ということは、やっぱり……。

それにしても、真面目によく働く方ですねー。
きちんと毎日、創作活動をして、合間に東京に出て打ち合わせやお茶のお稽古をして、帰ったらお料理。大掃除もしているし、お布団も干してる。古いおうちだから、手入れだって大変だと思うのですが、楽しそうに、じっくりと、こつこつと働いている感じ。ご近所の子供達とも仲良しだし、読んでて、すごいなあと素直に感心しました。私には絶対に真似ができません。

海の近くの町の暮らしと、物を書いて暮らしていくと言うことと。
色々なことが興味深い、楽しい本でした。
心に風が通る感じでしょうか。
でも、お腹が空きます(笑)。
2006.08.28

「プラネタリウムのふたご」
講談社文庫 2006(単行本は講談社 2003)

その村にはおおきな化学工場(製紙工場)があって、工場の煙突からはいつも灰白色のもやが出ていた。だから、村の夜空に星の姿はなく、村人達はその代わりにプラネタリウムで時を過ごすのだ。プラネタリウムの解説員は「泣き男」と呼ばれる独り者の男だった。だがある年の秋、投影中のプラネタリウムに双子の赤ん坊が捨てられた。そして、泣き男は2人の育ての親になった。捨てられ、泣き出した時に投影されていた彗星にちなんでテンペル、タットルと名付けられた2人は、泣き男と村人達に愛され、とんでもないいたずらっ子だけれど心はまっすぐな少年達に育つ。けれど、2人が14歳の夏、工場に奇術師の一座がやってきて……。

しばらく前に読んだ「ごはん日記」の中で書かれていた、いしいしんじの長編、とうとう文庫になったので読みました。そういえば、この本の書評を読んで、私はこの人の作品を読んでみたいと思ったのでした。そして、文庫になった順に読んできた。我ながら気の長い話です(笑)。

それで、うん、これはやっぱりすごい作品ですねー。
書かれた、のではなく、生まれた、ような物語。最初からそこにそのままの形であって、ただそれが人の目に見えるようになっただけ、というような印象のある物語。そういう、力のある、魔法のかかったようなお話です。それに、プラネタリウム、ふたご、奇術師、熊狩り、etc。今回も心ひかれるキーワードでいっぱい(笑)。この人の作品は、本当に、物語が、本が好きな人にはこたえられないものがありますよね。逆らえないというか、何というか。

プラネタリウムで育ての父の語る星々の物語を子守歌代わりに育ち、小さい頃から受付や投影の手伝いをしながら育ったテンペルとタットルは、14の夏に離ればなれになり、テンペルは国中を回る手品師に、タットルは生まれ育った村の郵便配達夫になります。いつも一緒に、もしくは交代で同じことをしてきた2人は、それぞれ1人で、それぞれの場所で自分のなすべきことを果たしていくことになるのです。それは、人々に夢を見せることであり、日々の生活を支え続けることでした。けれど、「まっくろいおおきなもの」や、工場の本社の手が、彼らの心に、彼らの村に迫ってきて……。

人はそれぞれ、自分の場所で、自分にできることを精一杯やっていかなければならない。己のつとめを真摯に果たしていかなければならない。たとえそれが、どんなにつらいつとめであっても。

2人の育ての親である「泣き男」が、なんだかとっても泣かせます。そして、タットルがずっと手紙を運び続けた目の見えない老女。彼らの深い愛情が、その存在の確かさが、物語全体に不思議な光を投げかけているようです。

星の見えない村の、プラネタリウム。
あなたの住む場所の空に、星は輝いていますか?
2006.10.27

「東京夜話」
新潮文庫 2006
(単行本は「とーきょー いしい あるき」東京書籍 1996)

人口をもて余し始めた世田谷区が人減らし政策として設置した「特別清掃局」。それは、深夜の街を回って「生ゴミ」を回収する極秘の部署である。取材のために清掃車に同乗することを許されたぼくは、次々と捕獲されて清掃車のローラーに巻き込まれていく「ミュージシャン」や「学生」、「演劇」や「キャバクラ」を目の当たりにする。そして……(「真夜中の生ゴミ」)。

ええとー、ちょーっとグロかったような気がします。
いしいしんじの初期短編集。そうか、最初はこういうお話を書く人だったんですねえ……(遠い目)。

舞台は、下北沢から始まって、原宿、上野、新宿、神保町と進んでいきます。それぞれの街の雰囲気を、いしいしんじ独特のちょっとずれた眼差しで切り取った、連作短編。なるほどなあと思ったお話もありましたし、ちょっとついていけないかも、と思ったお話もありました。で、全体としてみると「私にはちょっとブラックすぎかなあ」という感じでした。結構ほろりとさせられるお話(池袋君のお話とか)もあるんですけどね。

これは、1996年くらいの頃の東京です。10年前ですね。
そしてこの本を読んでいる間に思い出していたのは、それより更に数年前(1990年?)に書かれた池澤夏樹の「バビロンに行きて歌え」という本のことでした。あの本を最初に読んだとき、私は「ああ、東京もここまで来たんだー」と思った、そのことを改めて鮮やかに思い出したのです。ただ、その後、東京はどちらかというと後ろ向きの道を辿ったんだなと、この本を読みながら私は思っていました。電車の中で読んでいて、車窓を流れる景色を眺めながら改めてそう思ったのです。建物や道路は新しくなったかもしれないけれど、もっと違う次元で、東京は退化しているような気が、私はしてなりません。

おや、語ってしまったわ(苦)。
ということは、それでもこの本は私にとって力のある本だったということですね。やれやれ。
いしいしんじ、最近の本の方が、私は好きみたいです。
2007.02.16



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